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2010年8月

振り返ればやつがいる 100830

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1. 週末に昔のテレビドラマを見た。

 
8月7日の土曜の夜、自宅のカウチに陣取ってゆっくりとテレビを見た。その週はとても疲れていたので、気分転換にスターチャンネルで何か面白そうな映画を見たかったのだが、生憎、気に入った映画はかかっていなかった。それで仕方なく日本映画専門チャンネルに変えてみたのだが、意外にもそのチャンネルに思わず釘づけになってしまった。
 
 
それは、昔の人気テレビシリーズの“振り返れば奴がいる”(ふりかえればやつがいる)が夜9時から翌朝の5時過ぎまで、全12回が一挙放送されていたからだ。これは1993年1月13日~1993年3月24日まで、フジテレビ系で水曜日21:00~21:54に放送された、織田裕二と石黒 賢の二人が主演の当時の人気連続テレビドラマである。なぜ、僕がこれほど詳しく知っているかというと、毎週、楽しみにして必ず見ていたからなのだ(加えてWikipediaにも詳しく“振り返れば奴がいる”の番組クレジットが紹介されているので)。今でいえば、NHKの大河ドラマ“龍馬伝”の様なものだ(“龍馬伝”は毎週欠かさず見ている)。
 
そしてこの夜、僕は第一回から第三回までぶっ続けで見続け、深夜になったので途中で仮眠をとり、ふたたび明け方に起きだして、残り第十二回(最終回)までを見ることが出来た。そして僕はしばらく感動していた。翌朝はそのまま眠ることもなく、シャワーを浴び早朝から行動を開始していた。自分でも意外なほどに感動していたので、眠る気にならなかったのだ。
 
 
 
2. ドラマの大筋
 
ドラマの大筋はこうだ。天真楼(てんしんろう)病院を舞台に、性格の対照的な二人の医師の戦いが描かれる。織田裕二演じる司馬江太郎はまだ二十代後半の青年でありながら卓抜した手術の腕で名を知られる外科医だ。腕は超一流だが、不遜な態度をとり、医師としてのモラルは低い。たとえば、助かる可能性のある患者に対しては手術をするが、その可能性のない患者は“死なせてやれと”言い放ち、オペをせず見殺しにするのだ。司馬の興味は助かる患者に対して己の技量を試すことであり、救命できない患者は彼の興味の対象外なのである。特に無意味な延命を極度に嫌い、現代医学で救えない患者にはペタロルファン(鎮痛薬として有効だが本来は劇薬)を投与して安楽死させる。一方、石黒  賢演じる石川 玄はカンザス帰りのヒューマンな外科医だ。たとえ疲労の極地であろうとも、次々と運ばれてくる急患に対して献身的にオペをして救おうとする。助かる可能性があろうと、なかろうと、常に最善をつくして職責を果たそうとする典型的な善意の外科医なのだ。
そのような正義感の強い石川にとって、司馬の存在は医師として許せない。石川は司馬を天真楼(てんしんろう)病院から排除するべく戦いを挑むのだ。そして、ある事件で司馬の過失を証明してみせ、ついに勝利する。ある事件とは、手を尽くしたが患者を助けられないと判断した司馬が、それ以上無意味に延命することで植物状態となることを予想し、その患者の蘇生処置を放棄してしまったことだ。まだ生命徴候が残っている患者の心電計の電源をオフにし、死亡したことにしてしまったのだ。これを問題とした石川によって、司馬は懲罰委員会にかけられ、病院を辞めさせられることになる。しかし、最終回において、執念で司馬を追放した石川はスキルス胃癌に倒れる。そして、ほとんど成功する可能性がゼロに近い石川の胃癌手術を、なんとその石川により病院から追放されることが決定した宿敵の司馬が引き受け、成功させるのだ。(この辺りの司馬は本当に格好いい。自分を倒そうとしたライバルの難しい手術を引き受けることは、医師としてというより、人間として極めて優れており、感動的だ)。そして手術は成功したが、意外にも石川は術後性の肺梗塞で死亡する。司馬は落胆するが、最終回のエンディングでその司馬も意外な結末を迎えるのだ(司馬に失脚させられた別の医師から恨みを買い、帰宅途中の路上で刺される)。
 
 
 
3. なぜ、このドラマは自分を感動させるのか 
 
なぜ、このドラマは、製作後17年もたっているにも関わらず、僕をこれほど再び感動させるのだろう。先ず脚本が、あの三谷幸喜氏ということがある。これは、今回、クレジットを見て初めて知ったのだが、本作が彼のゴールデンタイムにおける初の連続ドラマであったらしい。三谷幸喜氏の作品は喜劇が多いが(僕は結構見ている)、本作はシリアスな医学ものだ。でも、人間の本質を見つめる目が鋭くなければ上質の笑いも生みだせないだろうから、要するに、感動を呼び起こすツボを心得ているから面白いストーリーが書けるのに違いない。
 
その感動のツボとは、一つには“熱いハート”。二つ目は“好対照”。確かに司馬も、石川も“熱い奴ら”なのだ。そして、性格は真反対で“好対照”である。僕ら凡人には、信念に基づいて行動する“熱いハート”を持った主人公に共感し、感動する習性がある。日常生活において、感動する瞬間はそう多くはないが、しかし、僕らは常に感動をしたがっていることは確かだ。だから、テレビドラマという仮想現実の中で、憧れを抱くことのできる人物に出会うと感動する。憧れの存在とは、そうなることを無意識に目指しているが、なかなか現実世界での達成は難しいような存在だ。僕らは熱いハートで生きたいと願っているが、現実には怠惰であったりするものだから、ドラマの中で“熱い人間”に出会うと感動する。僕にとっては、司馬も石川も理想であり、憧れの存在なのだ。性格は“好対照”だが、両方の生き方とも素敵に思ってしまう。つまり、ダブル主役として登場している正義のヒーロー石川も、悪のヒーロー司馬も、共にわれわれの分身といえるのかもしれない。自分の中に二人の要素、つまり善と悪の両方が存在するために、両者に共感をもてる。そういう人間心理を三谷幸喜氏は鋭く見抜き、視聴者の感動を呼ぶことに成功しているのだろう。
 
感動を誘う二番目の理由は、彼らの職業が外科医であること。僕は歯科医だが、医療人であるという点では、外科医とも共通するものがある。特に僕は口腔外科医としてのキャリアが長いので、なおさら共感を呼ぶのだ。石川は、患者なら誰でも平等に扱い、医師としての全能力を誰に対しても惜しみなく注ごうとする理想のヒューマニストだ。医師に必要なものは単に知識技能だけでなく、高い職業的モラル、しいては高い人格、と考えている。医師はとても素晴らしい人間であり、医療人であるならばみんなそのような存在を目指しているはずだ。現在の僕自身も、不肖の身ではあるが、それでも若い頃に比べると、少しでも人格を高めることが生きていく意味だと考えるようになってきている。歯科医として必要な知識技能と人間学の両方を学ばなくてはならないと考えている。だから石川的要素は自分の成長目標なのだ。
 
一方、司馬の人間性は粗削りである。無用の苦痛を与えることは悪と考えるので、救命の可能性のない患者には安楽死を与えたりする。その代わり、可能性がある限りはどこまでも全力で自分の能力を投入するのだ。特に、自分でなければ救えないと思われるような難しい手術を好んで引き受けたがる傾向にある。状況が困難であればあるほど、挑戦したがるのだ。彼が手術をする理由を聞かれて、“難しい手術だからやるのです”と答える場面があるが、彼の人柄をよく表している。自分の腕をのみ頼って生きていく生き方は、ある意味すがすがしく、共感を呼ぶのだ。たとえ考え方の合わない周囲の人間とぶつかり合ってでも、だ。人間としての成長度は石川の方がはるかに上級だといえ、人格者として尊敬できるが、司馬にもポリシーを貫く人間の魅力がある。司馬は、その考えは狭量であるが、信念に基づいて行動している。決して一般受けするキャラでないことは自覚しているが、自分が最高に生かされる場面をよくこころえているという意味で賢明な人間であり、自分でなければ出来ない困難な状況を意気に感じて飛び込んでいく。能力が飛び抜けているだけに、これはこれでカッコイイのだ。
かくして、僕には、司馬も石川も、共に憧れの対象となる。
 
 
 
4. そうだ、僕は司馬でいこう!
 
先にも書いたように、今の僕は石川的キャラクターと司馬的キャラクターの両方に魅かれる。言葉を変えれば共に自分のヒーローなのだ。しかしどちらかというと、自分の原点は司馬に近い。石川は、あくまでも努力目標だ。本来、備わっていないものを精神修養の結果として身につけていこうとする際の到達目標、という感じなのだ。一方、司馬は自分の感性に近い。最終回、司馬はライバルであった石川を救えなかった悔しさで、これから辞職する病院のピン付きIDカードをこぶしの中で握りつぶし、出血するシーンがある。これなのだ!司馬の本質は!誰にも真似が出来ない困難な課題に挑戦を挑むこと。それが達成された瞬間の恍惚感を味合うことが生きがい!そして、達成されなかった際の狂わんばかりの悔しさ!それこそがこの世に存在する理由と思える魂の底からこみ上げる情熱。これこそが司馬の本質であり、この部分において自分は、石川よりも共感出来るのだ。僕の原形質は司馬に似ている。なぜ苦しい道ばかりを歩くのだろう。時に自問自答することがあるが、それは理屈ではなく、自分の気性がそう出来ているからなのだ。人が出来ないことをやり遂げてみたい!それだけが僕の行動原理なのです。
 
 
満を持して成し遂げた手術が不成功に終わる時の悔しさは非常によく理解できる。僕も会心の出来と思ってやり終えた口腔の手術が、翌日の経過観察で創が開いているのを見たりすると、まだ自分の技量が不足だったかと、歯が折れそうになるくらい歯ぎしりして悔しがったりするのだ(ずいぶん司馬の外科手術とはスケールが違いますが)。自分もチャレンジケースでは逃げない。普通の歯科医ならトライしない難しいケースにチャレンジするタイプだ。司馬のような天才性は持ち合わせていないが、困難なケースであればある程挑戦したくなるマインドは確かにある。そういう意味では、司馬こそ自分の原点といえる。“難しい手術だからやるのです”という司馬の言動を借りるなら、“難しいケースだからやるのです”と僕も言いたい。どんなに困難な状況であっても、考えて、考えて、考え抜けば、何かいい方法があるはずだ。そのような状況の中に身を置いているときにこそ、歯科医としての生きがいを感じている自分を発見できる。そのような、自分本来の気性というものは変えようがなく、自分の持ち味として大切にしたい。そう、僕は司馬でいこう!
 
臨床家として必要な能力はいくつも挙げられる。それらは、患者さんとのコミュニケーション能力であったり、高い診断能力と最適な治療計画を立案する能力、歯科医院をマネジメントする能力、職業上の知識と技能を常にアップトゥデイトなものにバージョンアップする努力を持続できる能力、あるいは、人間学を極め人格を高める努力を継続できる能力であったりする。いずれも生涯にわたって持続しなければならない努力目標であるが、強いて自分がある程度、生来備わっている能力を上げるとすると、“あきらめない精神”を持続する能力かと思う。自分はしつこい。
 
ところで、“あきらめない精神”は歯科では大切だ。どんなに悲惨な口腔であっても、必ず快適に機能する口腔に回復させる事は可能なはずだ。司馬の生きる外科の世界であれば、疾患を治癒させる事が出来ず、死に至らせる事もあるかもしれない。司馬のようにクールに治療を放棄し、安楽死こそがベストという極限状況もあり得るかもしれない。しかし、慢性疾患を扱う歯科医療においては、悪性腫瘍を除いて、通常は患者を死に至らせるケースは稀である。このことは非常に幸いなのだが、歯科治療においては諦めねばならない状況はない。歯が無くなれば、義歯があり、インプラントがある。インプラントを植える骨が無くなれば顎堤形成術がある。その顎骨すら無くなれば、顎骨移植術がある。どのような最悪の状況でも、必ず打開策はあるのだ!あきらめてはいけない。
 
 
 
5. 歯科医療に必要なものは“感動”だ。
 
自分を突き動かす原動力は歯科医療の中で味わえる感動だ。困難な仕事を成し遂げた時の達成感は最高であり、この仕事をしていてよかったと思える。これほど面白い仕事はないです。そして、学ぶべきことが多く、まだまだ修行の道半ばゆえ、これからもまだまだ学んでいける、と思うと楽しくて仕方がない!そう、僕は歯科の勉強フェチなのです。
 
これほど楽しい職業につけたのは、自分が歯学部に入ることが出来、歯科医になれたからであるが、この幸福感の生じる原理は他の分野でも同じだろう。だから、他の道に進んでいたとしても、同じように幸福感を感じることはできたと思う。考えて、考えて、考え抜いた揚句に見つけた解が見事に成果を生んだ時、最高に幸せなのは、歯科衛生士でも、歯科技工士でも、塾の教師でも、証券マンでも、なんの職業においても、きっと同じに違いない。どれほど入れ込むかで、その対象から得られる幸福の度合いが決まる。大切なことは、自分も顧客も共に感動できるというような、感動のレベルで仕事をするということだ。
 
最近、ますます歯科の仕事が楽しくなってきている。口腔外科をやっている頃も結構楽しかったけれど、開業してから以後、ますます自分の仕事は楽しさを増している。それは歯科の仕事は、考える要素が多いからであり、精緻な技術が要求されるからであり、そして何よりも愛の仕事だからです。成功した時に得られる満足感はかけがえがありません。患者さんはハッピーになり、自分もハッピー。こんな幸福な人生は最高です。そう思えるヒントが司馬のマインドだ。司馬はこの世で最高に幸福な男なのです。司馬は感動のレベルで仕事をしているからだ。そこに人生をハッピーに乗り切る秘訣があります。だから僕も司馬でいこう!
 
2010年  残暑厳しい8月のオフィスにて
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