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2010年3月

リカバリー

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1 ヒースローからオックスフォードへ

年末にロンドン郊外をドライブしたのだが、これは少しばかりタフなものだった。というのも日本からの10時間余りのフライトを経てヒースロー空港に着くや否や、いきなり空港からレンタカーでロンドン近郊のオックスフォードまで高速道路で移動するというものだったからだ。
 
しかも、ドライブのスタートは夕闇迫る午後5時過ぎである。冬の5時はほとんど夜と言ってよい。ヒースローには午後3時半頃には到着したのだが、入国やらレンタカーやらの手続きで、空港を出発出来たのはその時刻になった。なぜ目的地がオックスフォードかというと、宿泊先をオックスフォードのホテルに決めていたからだ。 だから、何としてもその日のうちにオックスフォードまで移動する必要があったのだ。
 
ドライブがタフなものであった本当の理由は、それが空の長旅の後のいきなりの高速ドライブであったからではない。あるいは、慣れぬ外国の夜のドライブだったからでもない。タフなドライブとなった理由は、何の準備もしていなかったからである。実は、日本を出発する前日まで、僕は診療に明け暮れ、あるいは歯科医師会のちょっとした仕事に没頭していて、ほとんど旅行のことを考えていなかった。今回のイギリスのドライブ旅行は僕のアイデアであったにもかかわらず、実際は飛行機の到着時刻も、当日の宿泊地がロンドンではなくオックスフォードであることもあまりよく認識していなかった。ヒースローからオックスフォードまで、どういったルートで移動するのかさえ知らなかった。そして、出発の前夜、ヒースローに到着後の当日の宿泊先が、ロンドンではなくオックスフォードであり、レンタカーで夜道を移動する日程が組まれていたことを知った僕は青くなった。現地のドライブマップを日本で入手しておくべきだったことをとても後悔した。かろうじて、飛行機に乗る直前、インターネットのgoogleから、ヒースローからオックスフォードまでのドライブマップをプリントアウトし、行きの飛行機ではその簡単なマップのルートを暗記しようと必死で努力した。しかし、あまりにそのマップは簡単なもので、そのようなラフなものでは到底、正確に目的地にはたどり着けそうにないことも分かっていた。行きの飛行機の中で、間もなく始まる異国のドライブを控えて僕はとても緊張していた。
 
 
2 ラウンドアバウト
 
案の定、僕は道に迷った。そもそも道路マップというものを事前に入手していないので、状況的にはかなり不利なのだが、それでも借りたレンタカーにナビが装備されていたのにはホットしたものだ。とはいえ、英語の音声ナビに慣れるまでは、何度となく進路の選択ミスをした。
イギリスにはラウンドアバウトという独特のサークル状の交差点があり、これに最初は戸惑った。これは要するに、信号待ちを省略するために、進行方向に対して時計方向に走行するように決められたサークルに乗り(サークルに入る前に一旦停止し、右から来る車を優先させて注意深くサークル内に入ることになっている)、何番目かの適当な出口を選択することにより左折、直進、右折ができるという合理的なシステムだ。ヒースローからM25という高速道路に乗るまでの間、何度もこのラウンドアバウトで出口を間違え、そのたびに目的地から遠ざかった。言ってみれば、左折するべきところを直進し、直進するべきところを右折するようなものだから、いつまでたっても目的地の方向に進めないのだ。目は前方の見慣れぬ景色にくぎ付けでナビ上の画面を注視する余裕はなく、選択すべきルートの音声案内を理解できた時にはすでにそのポイントを通り過ぎていた、という按配で、僕はことごとくミスを繰り返し、そのたびに目的地から遠ざかって行ったのだ。
 
 
3 リカバリー
 
  ミスの度に戸惑いはしたが、しかし決して落胆はしなかった。なぜかと言うと、ミスを犯す度に、数秒後にはナビが必ず新たなルートを提示してくれたからだ。僕が選択ミスをすると、ナビは必ずこう言う。”今、あなたは間違った道を選択しました-----------。計算中。---------”。そして次の瞬間、ナビは新たなルートを提示してくれる。それは必ず提示されるのだ。なぜならすべての道はつながっているからだ。そして、コンピューターで計算された修正ルートから外れないように注意深く運転していくうちに、やがて再び目的方向に近づけた。その日の夜の8時頃には無事、オックスフォードの市街に入れた時には本当に安堵し、思わずビールで乾杯した。
 
何をするにしても、今回のドライブがそうであったように、準備不足は得てして失敗につながるものだ。ルートも調査せず、いきなり移動を開始しても、ミスにミスを重ね、迷走するのだ。車窓から見える町の名前が目的地までのルート上の町なのか、全く外れた位置のそれなのかさえ分からないのだから、迷走するべくして迷走したと言える。なんとか目的地に辿り着けはしたものの、まったく冷や汗ものだった。しかし、今回の経験から貴重な教訓を得た。それは、どんなにミスを重ねたとしても、かならず冷静な計算によってリカバリー出来るという事実を体験したことだ。目的地からそれたとしても、あるいは、まったく逆走していたとしても、GPSによって現在地を把握し、目的地からの距離やそこに到達するルートを再構築することはどのようなポイントからでも可能である、ということはとても重要なことなのだ。当たり前のことのようだけれども、すべての道はつながっていることを忘れてはいけない。ゆえに、リカバリーはどんな状況からでも可能ということである。
 
このことは人生のいろいろなトラブルに遭遇した場合にも生かされる教訓ではないだろうか。あまりうれしくはないけれども、何かを企てたとして、準備が不足している場合には得てして失敗をする。その場合に、目的地に到達する意思がある限り、たとえどんなにそれが困難なことのように思えようとも、リカバリーは可能だということだ。必要なことはどこに向かいたいのかという目的地を明確にしておくことと、現在の自分の位置を正確に把握し、目的地までのルートを冷静に計算することだけだ。カーナビがドライバーを間違いなく目的地にまで運んでくれるように、その冷静な計算が必ずリカバリーを可能にしてくれるのだ。このように考えてくると、論理的には失敗は起こり得るものであるが、そこからのリカバリーも必ず可能であるということだ。
 
 
4 失敗を肯定的に捉えよう
 
失敗が避けがたいものであるなら、これをむしろ肯定的にとらえたいものだ。“失敗は成功のもと”と昔から言われてきているし、成功するために必ず通過しなければいけないプロセスと捉えれば、失敗も人生の構成要素なのだ。そもそも成功とは何だろう。意図したことが達成されることだが、誰でも最初に何かを試みるとき、身近に成功例があればそれを模倣することで失敗は避けられるかもしれない。しかし、世の中のプロジェクトは、必ずしも成功モデルが用意されているわけではないのだ。多くの場合、新しい企画は、特に独創性が必要な領域では成功事例を模倣できるケースは少ない。試行錯誤を経て、このようにすれば失敗するから、もしかするとこうすれば成功するのかもしれない、と考えてトライする。そしてその結果を分析し、それがまたも失敗ならばその原因を分析し、また新たな方法を試してみる、その繰り返しが最後に成功に導くのだ。人間の頭脳とは、そもそもそのようなプロセスを受け入れるように作られている。多くの事象の解析が原理や法則の発見につながり、一旦原理原則が確定したら、具体的にそれを技術に応用し、その技術を目的達成に適応する。このような繰り返しで、人類の技術や文化は形成され、今日の社会があるのだ。
 
 このように失敗を肯定し、体系的に失敗を研究する姿勢の価値を説いた書籍として、「失敗学のすすめ」がある(畑村洋太郎著 講談社文庫)。同書は言う。『----日本は明治以来、先行する欧米に追随し、これをマネすることを良しとしてきました。その成果として目覚ましい発展を遂げることは出来ましたが、一方で、独自の文化、文明をつくる創造性を育む努力を怠ったために、これを欠落させたことは否めません。
 
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創造力のなさは、失敗に直面した時の対応のまずさにも顕著に現れます。真の創造は、目の前の失敗を認め、これに向き合うことからしか始まりません。にもかかわらず、起きてしまった失敗を直視できず、「思いもよらない事故」「予測できない事故」という言い訳で失敗原因を未知との遭遇にしてしまう責任逃れを繰り返しては、次の失敗の防止も、失敗を成長・発展の種にすることもできません。----』失敗を悪いこと、恥ずかしいこと、と捉えない文化があれば、次の失敗が予防出来、さらなる大発展も期待できる、とする氏の考え方に賛成だ。
 
 
 
5 エピローグ  ~リカバリーこそ生きがい~
 
人生には失敗がつきものだ。受験の失敗、就職の失敗、失恋、結婚の失敗、離婚、誰かに裏切られる、詐欺に合う、投資の失敗、仕事の失敗、倒産、破産、失業、欠陥住宅を買ってしまう、価値のない物を購入してしまう、交通事故、病気、怪我、盗難に合う、不注意で誰かに迷惑をかけてしまう、嘘をついて信用を失う、人を傷つけてしまう、等々、数え上げたらきりがないほど人生は失敗にまみれている。そして、このような失敗はだれの身にも同様に起こるのである。失敗することが悪いことではない。しかし、最悪なことは、失敗は悪いこと、恥ずかしいこととしてそれを隠ぺいすることだろう。嘘に嘘を重ねると、最後には取り返しのつかないダメージを被る。たとえば企業が不祥事を起こしたとして、内部告発で明るみに出るまでそれを隠ぺいしようとすると、それが発覚した時のダメージは計り知れない。不可能ではないにしても、信用を取り戻すには並大抵でない努力が必要となる。だからこそ、失敗は明るく、肯定的に受け止めねばならない。失敗を隠してはならないのだ。
物事を達成することはもちろん楽しいことだが、そのプロセスも本来、楽しいはずである。苦境に陥ることはもちろん大変なことではあるが、それを克服し、目標地点に到達できた時の達成感は格別であり、その喜びはそれまでのプロセス一切合切に対する喜びでもある。つまり苦境自体がすでに楽しみなのだ。どうすれば成功できるか、ああでもない、こうでもないと思案し、試行錯誤をしている時、とても幸せといえる。たとえ苦境の真っただ中にいる時には気付かないとしても。
 
リカバリーすることは本来、楽しみの要素に満ち溢れている。先ず、どうすればうまくいくかについていろいろアイデアを練ること自体が楽しい。また、絶対負けない、くじけまい、と気合を入れること自体が精神力を試せて楽しい。失敗は十分準備することで予防が可能だと思うが、たとえ失敗が起きてしまったとしてもリカバリーを楽しむ気分で取り組めばいいのだ。
 
かならずリカバリーは可能であることが約束されているのだから。すべての道はつながっているので、一時的に迷ってもカーナビゲーターシステムを用いれば、必ず目的地に到達できるように。自分自身の中にナビゲーターシステムを内蔵することで、失敗は必ずリカバリー出来る。信念の力でリカバリーを達成しよう。このようなファイティングスピリッツで自分の本業に取り組みたい。そしてこのようなスピリッツを人々と共有したい。だって、多くの患者さんは健康を損ねるという失敗を経てわれわれの元に来られるのだから、自分もその失敗のリカバリーを患者さんと共に取り組み、そしてそれを共に楽しみたいのである。
 
 
平成22年3月22日
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