成人の日の昼下がり、細君が浮かぬ顔をしている。どうやら、2017年の「高島易断」の本を読んでいたようだ。その本には、今年の私の運勢が良くないようなことが書かれていたらしい。それで不安になった。「今年に家屋の増改築を行うのは凶」と書いていたとのこと。なあるほど。当院は現在、二階を改築中だからだ。
高島易断のような、いわゆる今年の運勢の類のような占いに関する私のスタンスをいえば、私は占いをあまり信じていない。えらそうなことをいえば、運命とは自らの努力で創り出すもの、という考えがあるからだ。以前、読んだことのある安岡正篤著「易と人生哲学」の中に同様の趣旨で、「易に通ずるものは占わず」というようなことを書いていたように記憶していたので、今日はその本を取り出し、あらためて読み直した。とても含蓄のある内容なので、ここにその抜粋を記す。
「多くの人々は、易というものは、人間の運命に関する学問であり、その運命とは、宿命であると誤解しております。宿ーとどまるという意味ですから進歩がありません。運ーめぐるですから動いてやまないものをいいます。つまり、宿命と運命とを取り違えております。
本当の運命は文字どおり創造していくことであります。この宿命に対して命を立てる、命を開くことを立命と申します。だから本当の運命は宿命でなく、立命でなければなりません。いかに自ら運命を立てていくか、ということが本当の運命の学、すなわち易学であります。だから、易学というものは定められたその関係を調べるのではなく、どこまでも自分の存在、自分の生命、生活というものを創造していく学問であります。
それにはやはり命というものを、あきらかにしなければなりません。その命の中に因となり果となっていろいろと創造が行われます。その複雑微妙な因果の関係を「数」といいます。そこで易を学ぶということは、われわれの動いてやまない運命の中に含まれている命数、運命の複雑微妙な創造関係、因果関係というものをあきらかにして、運命に乗じて、これを再創造していく、運命に乗じて運命を自ら作っていく学問であります。そこで、易を学べば学ぶほど、自分で自分の存在、自分の活動、そして自分の運命を拓いていくことが出来るのであります。———-中略———-易といえば占うものだと考えておるのは、それはまだ易学を知っておらぬからでありまして、本当に易学を知れば、占うということはいらなくなります。自分で判断して自分で決定が出来ます。」
どうです。かなり勇気づけられる文章ではないですか。生きるって、こういう心持ちで生きていくことをいうのではないでしょうか。
参考図書:安岡正篤. 易と人生哲学. 致知出版.東京.1986.