1. まえおき
いうまでもなく命は大切である。命がないと何もできないわけだから当り前である。たとえば、先日の昼食は佐賀県にある眺めの良い素敵なレストランで歯科医師会の先生方と佐賀牛ステーキを頂いたわけだが、本当においしかった。しばし幸福感に浸れたのも命があるからだ。
こんなに美味しいものを頂くと、また次の機会に家族や大切な友人とこの感動体験を共有したいと思うし、そのために明日からまた仕事を頑張らなくちゃ、とも思う。あるいは患者さんにもよく咬めるようにいい治療をしてさしあげて食事を楽しんでもらえるようになれば、患者さんも自分もともにハッピーになれるわけで、だからこそさらに歯科医としての技術を磨かなくちゃ、などと思う。こういった考えを巡らすことが出来るのも生きていればこそだが、さらに言えばこういったふうにいろいろ考えられ、行動の意欲が湧いてくるからこそ生きている意味があると言える。
このことはいいかえれば、単に生きているだけでは駄目で、喜んだり、悲しんだり、感動したり、人を好きになったり、共感したり、何かの目標を立てて頑張ったり、それが達成出来た際には生きていてよかった、などと感じることが「人間らしく」生きることなのだ。そうすることが出来てこそ生きる意味がある、ということになる。「人間らしく」生きるということは、いろいろなことを感じたり、思考したりすることが出来る脳が健全に機能することで可能となるのだから、生きていることが尊いということは、脳が健常であることが尊いということである。要するに脳が健全に働いてこそ生きていることが尊いのであって、脳が健全に働かなければ生きている意味が大きく損なわれてしまうのだ。だから、命が大切、ということは脳が大切、ということと同じである。したがって、脳の働き方や、その働きを良くすること、さらにはその健全な働きを長く守ることについてしっかり考えることはとても大切なことだと気づかされる。
というわけで、今回のテーマは脳である。
2. 前頭前野が「人間らしさ」のすべて
「人間らしく」生きるということは「脳を健全に働かせる」ということと同じと書いたが、正確に言うと脳の中でも大脳皮質の前頭葉という部分が創造や思考を行う部分だそうだから、人間らしく生きるとは「前頭葉がうまく働いている」ということなのだ。さらにいうと、前頭葉の中でも特に前方に位置する部分を前頭前野(または前頭連合野)というのだが、前頭前野の機能こそが「人間らしさ」の根源らしい。「人間らしさ」のすべてを形成しているのが前頭前野ということである。
ここで人間の生活における前頭前野の大切さについて、セロトニン研究の第一人者である有田秀穂氏の最近の著書「脳からストレスを消す技術」(サンマーク出版)の一部を紹介しておこう。有田秀穂氏によると、人間らしさをもたらす前頭前野には「共感」、「学習」、「仕事」の三つの働きがあり、それぞれ前頭前野の真ん中にある「共感脳」、上方の「学習脳」、外側の「仕事脳」がこれらの役割を分担しているという。「共感脳」とは相手の感情を推測する脳である。「学習脳」とはいろいろ努力する脳であり、「仕事脳」とは一瞬にしていろいろの情報を判断し、経験に照らし合わせて最善の行動を選択する脳である。
これらのどの領域の機能も人間として欠かせない心の働きだ。そして、それぞれの脳神経は異なる神経伝達物質を介して働いており、学習脳はドーパミン神経、仕事脳はノルアドレナリン神経、そして共感脳はセロトニン神経である。前記三つの神経の働きの現れが人の心であるが、人の心が悲しんだり、喜んだり、と移ろうのもこれらの三つの働きのバランスがその都度違っていることに他ならないという。
人間らしさの根源が前頭前野によってもたらされると書いたが、上記の前頭前野の三つの働きのうち、「共感」こそ人間が人間たる最重要な脳の働きであると著者はいう。 「共感脳」とは、相手の表情や仕草から相手が、今、喜んでいる、悲しんでいる、自分に好意を持っている、嫌っている、と判断する脳である。 この働きが無くなると人間は人とのコミュニケーションが全くできなくなり、社会生活が営めなくなる。 現代人に増えてきているプチうつも、ネット社会の出現でメールやツイッター、フェイスブックなどによる電子文字のみを介した交流を常態とすることから相手の感じている気持ちを思いはかる能力が低下して生身の人間対人間の交流を苦手とする様になった結果、バーチャルなコミュニケーション世界に閉じこもり人々の「共感脳」の働きが弱ってきているせいだ、と著者は言う。 というのは、人間のコミュニケーションは言語を介するものよりも、声や表情、態度など言語以外の手段を介するノンバーバルコミュニケ―ションの方がはるかに多いと言われているからだ。だから個性の感じられない電子文字のみを介したコミュニケーションでは共感脳が育たない。「共感脳」をうまく働かせることによりセロトニンの働きは高められるのだが、「共感脳」を働かすことがなければセロトニンの働きが低下してしまうのだ。うつはセロトニンの働きが低下している状態なのである。
このように前頭前野は人間にとってもっとも重要な脳領域なのだが、中でも「共感脳」が残り二つの「学習脳」と「仕事脳」の働きをコントロールする主導的な役割を果たしていることがわかっている。「共感脳」は前頭前野のコンダクターなのである。強いストレスが脳に加わると、ドーパミン神経やノルアドレナリン神経は過緊張に陥り、時に暴走することがある。たとえばドーパミン神経が過剰に興奮し続けると例えばアルコール依存症のようになにかの「依存症」という病気になるし、ノルアドレナリンの異常興奮が続けばうつ病を始め、パニック障害や、強迫神経症、対人恐怖症、等の様々な精神疾患を招いてしまうのだ。
ところが、セロトニン神経は暴走することがなく、しかも前二者が暴走しないようにコントロール出来るという。一定量のセロトニンが規則正しく出ることによって、ドーパミン神経やノルアドレナリン神経が過剰に興奮することを抑え、脳全体のバランスを整え、「平常心」を保つ役割をしているそうなのである。このようにセロトニン神経は前頭前野の他のドーパミン神経やノルアドレナリン神経の働きをコーディネイトしてストレスをうまくマネジメントしているのだ。
要するに、人間にとって最も大切な「前頭前野」は、セロトニン神経のコントロール下で上手く働けるのだ。「共感脳」を起源とする行動エネルギー、すなわち人のために役立とう、働こうという行動意欲が、「仕事脳」や「学習脳」のパワーをマックスまで引き出し、人間は頑張ることが出来るのである。前頭前野が健全に機能してこそ、人の悲しみや喜びを理解し、人のために頑張る喜びを知り、人を救う行為によって自らも救われることを悟りつつこの世に存在する喜びも感じることが出来る、というように人間が人間らしく、生き生きと生きられるわけである。
3. 咬むことで前頭前野を鍛えられることがわかってきた
また最近、歯科の研究領域からも咀嚼が前頭前野の機能を高めるという重要な事実が報告されている。神奈川歯科大学教授 「咀嚼と脳の研究所」所長 小野塚 實教授は、氏の著書「咬む力で脳を守る」(健康と良い友達社)のなかで、機能的磁気共鳴画像(fMRI)を用いて咀嚼運動が脳に及ぼす影響をリサーチした結果について述べている。同教授によれば、しっかり咬むことにより前頭前野が著明に活性化されるという。そして、残存歯数と認知症との関連性を指摘し、歯の数が少なくなるほど認知症になる率が高まることを指摘している。そして、よく咬み、前頭前野を活性化させることで認知症を予防できると述べている。また、咬むことにより、前頭前野だけでなく、海馬やその他のすべての連合野も活性化されることから、高齢者の記憶力の増強をはじめとする脳全体の活性が高められることを報告している。咬めるようになることで高齢者は元気になるのだ。
これらの情報は歯科医にとっては素晴らしい報告だ。われわれの仕事は単に悪い歯を治して物を咬み易くしているだけではない。咀嚼機能の改善を通じて脳機能を健康にする仕事に携わっているのだ。そう考えると、この仕事の意味は大きいし、やりがいを感じる。歯科医の仕事はただ歯をきれいに並べて見せるだけでは不十分だ。よく咬めるようにしないといけない。脳に刺激がしっかりと伝わるように、キチンと歯と歯が機能的に咬み合うようにしないといけないのだ。歯が無くならないように予防を重視してしっかりケアをし、歯周病になっている歯は、残せる可能性があればしっかり歯周病の治療をして残し、残せなければ抜歯して、義歯なり、インプラントでしっかりと咬み合わせを回復させて患者さんの脳の機能を守って行く。そういう価値ある仕事が歯科の仕事だ。
国民のすべてがよく咬めるようになって健康になれば世の中はものすごくよくなるだろう。たとえば、高齢者も現役で勤労生活を継続できるから生産人口の減少に歯止めをかけられる。したがって、BRICsの後塵を拝することなく、グローバルマーケットに日本企業は参戦し続けられるので外需が拡大し日本経済は上向く。また、医療費が国家財政を圧迫している現状を改善でき、財政が健全化する。給与収入を得られる高齢者も人生を謳歌するので良い消費者となり、元気な高齢者向けのサービスを展開する産業が活況を呈し内需も拡大する。企業活動に参加しない健康な高齢者は非営利活動法人の活動に参加するので、人と人との絆の感じられる暖かい社会が到来する。そこいら中にボランティアの高齢者が溢れかえる社会だ。高齢者が頑張ってくれるから社会にゆとりが生まれ、女性は企業に在籍しながら育児休暇を取れるので出生率が向上し、人口が増加し始める。国内消費の増加が好況をもたらし、企業は過剰な経費削減を強いられなくなり若年世代の雇用が増える。やがて若年者生産人口も必要量に達し、社会は各世代のバランスのとれた適正な生産人口構成比を取り戻す。 その時点で永年勤労生活者として頑張った高齢者は退職することも可能となり、蓄えた給与と年金で安心して非営利活動に専念できるようになる。企業活動ではなく、非営利活動を通じて社会に貢献する新たな人生を迎えるのである。そして社会はこのような非営利活動を今以上に必要とする時代が来るだろう。人と人との絆を深めるにはフェイス・トゥ・フェイスの接触が不可欠だが、自由な時間の多い健康な高齢者こそ最適任だ。社会のあらゆる分野の人対人の接触が求められる機会に参入し、彼らの長年培ってきた経験智を若年世代に伝承することは、高齢世代にも、若年世代にも、社会全体にも益するのである。決して隠居して何もしない、などという高齢者はいなくなるのだ。介護施設に入ることが高齢者の幸福ではない。すべての高齢者が健康でいられて、なんらかのかたちで社会の現場とかかわり続けられる社会、それが高齢者にとって生きがいのある幸福な社会だろう。
よく咬める国民が増えるとは、こういう素敵な社会が到来することだ。
“情報革命で人々を幸せに”と謳うソフトバンク社長 孫正義氏のいうように、情報革命で人々は確かに幸せになるだろう。しかし、ネット社会、コンピューターで制御された社会、すべての分野でロボットが台頭する社会においてはストレスマネジメントがより一層重要になることは間違いない。そのような社会で、リズム運動である咀嚼の機能を健全に保つことによって国民の脳の健康を守ることが出来るということはなんという光明であろう。そう思う時、歯科医療は本当に尊い価値ある仕事に思える。本当に我々にとってよく「咬める」ことは大歓迎なのだ。まさに“ウエルカム・ウエルカム”(welcome・well咬む)である。だから、この仕事に邁進しよう!歯科医として働く目的はたったひとつ。“咬む力で人々を幸せに”することなのだ。
2011年5月1日 連休最中の自宅にて