1. 歯科は不況産業の代名詞?
リーマンショック以降、我が国の多くの業界は不況に喘いでいるが、歯科界もまた同様である。 その惨状については、一部の業界紙の報道によれば、 「歯科診療所は全国で6万8000件、コンビニエンスストアの店舗数より多いにもかかわらず、 患者数は増えず、保険医療費は伸びないことなどから経営環境の悪化は著しい。 5人に1人が年収200万円以下でワーキングプアと呼ばれる層に含まれ、東京都内では実に1日1件のペースで歯科医が廃業している」と、 相当にショッキングな内容となっている(『ZAITEN』2009年6月号)。 歯科医がワーキングプアかどうかは分からないが、かつて一般には開業歯科医の生活はリッチだというイメージがあっただけに、 厚生労働省により実施され2009年6月に公表された「医療経済実態調査」の結果にマスコミが過敏に反応したものと思わる。
はたして歯科は本当に、不況産業の代名詞なのだろうか? たしかに、日本歯科医師会も「歯科医院の経営努力は限界」とのコメントを出しているし、 世間の歯科医師に対する社会的イメージは下落傾向にあることは否めない。 少なくとも、この記事を読む若年層からは魅力のない業界として捉えられ、「歯医者にならない方がいいな」と考えるだろう。 実際、2009年度大学入試では私立歯科大学・歯学部17校のうち6割が定員割れを起こした。 歯科技工士の置かれた状況は歯科医師以上に深刻である。 日本歯科技工士会の調査によれば、20代の歯科技工士の8割が歯科技工士の職に就かず、2009年度の歯科技工学校の入学者は、 2008年度の充足率62%をも下回っていた。このような状況下で歯科技工士の高齢化が進んだ場合、高齢化社会の下で需要が高まる補綴、 とりわけ義歯の需要に応じきれない事態が危惧される。
こういった事態は将来の我が国の国民に極めて深刻な不利益をもたらしかねない。 新しい人材が流入してこない業界が生き残ることはあり得ないが、歯科界は本当にこのまま衰退してしまうのだろうか? 私は断じてそうならないと思う。 歯科医療の健康にもたらす価値の大きさを信じて頑張っている私としては、それでもなお歯科医療は魅力ある仕事で、 将来有望な業界であると声を大にして訴えたい。 そしてそれはカラ元気ではなく、歯科界が未来の成長産業である根拠を具体的に提示しなければならない。 そこで、今回のテーマは「歯科界の新潮流」と題して、歯科界の新しい潮流、特に明るい未来をもたらす可能性のある動きについて考えたい。
2. 歯科は成長産業に変化する!そのわけは—–
私は、歯科業界は近い将来、おおいに成長すると考えている。 その根拠は、「価値のあるものは絶対に滅びない」という信念だ。 これは職務に情熱を傾けている歯科医の共通の信条だろう。 しかし、個人的思い入れのレベルではなく、客観的事実として歯科産業が成長産業へと転換できる可能性を示唆する根拠はすでに十分あるのだ。
その根拠の一つ目として、最近の脳科学の進歩により、 咀嚼(そしゃく)が思っていた以上に脳機能に大きく影響していることがわかってきた事実を挙げたい。 具体的に言うと、「咬む力」が記憶力や認知力を向上させる有効な手段だと考えられることだ。 さらに「咬む力」は「脳を守る」だけでなく「ストレスを解消する」ことにもつながるらしいのだ。
神奈川歯科大学教授 神奈川歯科大学大学院歯学研究科長 小野塚 實教授のfMRIによる実験データを踏まえた脳研究の報告によると、 咬むことにより、口や顎などの領域からの情報が大脳の広範囲に入力され、 さらに大脳辺縁系(へんえんけい)の海馬(かいば)や扁桃体(へんとうたい)、 前頭前野(ぜんとうぜんや)に変化を及ぼすことが明らかとなっている。具体的に言うと、 高齢者の認知症は、海馬(かいば)や扁桃体(へんとうたい)、前頭前野(ぜんとうぜんや)など、 人間にとって最も重要な脳の高次神経回路の機能障害であることがわかってきている。そして、こういった重要な回路が 、咬むことによって活性化されるということが明らかになってきている。つまり、よく咬むと認知症が予防できる、ということだ。 このことは非常に重要で、健康の基本は精神活動の旺盛さを維持することであるが、 咀嚼がその一翼を担っている事実が国民の意識レベルに広く浸透すれば、歯科の受診率は今以上に向上することは間違いない。
咀嚼機能を損なう原因として、従来から虫歯と歯周病が歯科の二大疾患としてクローズアップされてきた。 しかし、上記の二大疾患の制圧が依然として極めて重要な課題であることは間違いないが、 それが従来から長い間歯科界のスローガンとして使われてきたためにいささか色あせて見える感も否めない。 今後は国民の関心をひく新たな歯科的関心、例えば咬み合わせの異常がもたらす健康障害なども盛り込み、 細菌との闘いだけではなく歯の咬み合わせのあり様や咬むことそのものの価値の高さを強くアピールする、 などの新キャンペーンが必要ではないだろうか。
二つ目の根拠として、日本経済の復興に歯科が貢献できることである。 本年10月の内閣府発表によれば日本経済は大企業を主体に復調の兆しを見せ始めている。 日本経済は目下、2009年3月前後を底として、中国など新興国の景気回復を追い風に輸出産業が牽引する形で景気が回復基調にある。 GDP(国内総生産)はじめ鉱工業生産指数など各種景気指標を眺めても、直近の景気のピークである2007年度の水準の9割程度は回復している。 したがって、日本経済が回復基調にあるならば、基本的には歯科界も間もなく最悪期を脱し需要が戻って来ると思われる。
しかし、実際の話はそれほど単純ではない。 歯科医療経済を行政レベルで見るとまだまだ先行き暗いのだ。 政府の12月24の閣議で決定された予算案では、歳入の半分以上を国債44兆円の発行で宛てることになっており、 財源なき歳出拡大傾向が止まらない。この調子では歳出の多くを占める社会保障費のうち、 歯科医療費に回す財源が今以上に大幅に増えることはないだろう。従って歯科界の活性化に公的サービスが一翼を担ってくれることは期待薄だ。 だから歯科界の苦境の解消はあくまで歯科界自身の自助努力によらなければならないことになる。そして、それは可能だ。 公的財源に多く依存する限り、限られたパイを同業者が奪い合う構図から逃れられない。従って歯科のマーケットは自助努力で拡大する気構えが必要だ。
この点は民間企業の経営努力がおおいに参考になる。 たとえば、今、日本企業はその景気浮揚策の根幹をなす戦略として、 地球環境を守るためのグローバルな戦いに参画することで日本企業の価値を世界に示し、 他国企業をリードしようとしている。実際には原子力発電、太陽光発電、CO2封じ込め技術、省エネ車、排煙脱硫・脱硝技術等々、 で日本は最先端の技術を開発して来たが、東欧、中国、インドなどがこれを必要としているので正に好機到来である。
つまり自社の特性を自覚し、その能力を必要とされるマーケットに売り込みに行くのである。そしてこの営みは個々の企業が単独に交渉に当たるのではなく、ハードとソフトを両方含む形のいわば関連企業が企業連合を形成した形でジャパンクオリティーをマーケットにアピールしているのである。
歯科界は他業界のこの姿勢を参考にすべきである。歯科の強みは一番目の根拠でも示したように、一般の国民が考えている以上に健康に寄与する力が大きいことである。これまでのように虫歯や歯周病の撲滅だけをスローガンにしていたのではわれわれの活動対象が口の中だけに留まってしまう。われわれが提供しているサービスは全身の健康の維持増進を目指していることを強く国民にアピールすべきである。歯科的健康を維持することの有益性に関する情報を絶え間なく国民に提供していく努力が必要である。そしてこの情報を正確に社会に伝達する力は歯科医療関係者をおいて他にない。プロフェッショナルだからこそ価値ある情報を選択し提供できるのである。
こういったアクティビティーの持続は必ず「歯科の時代」の到来につながるのだ。それは、歯科的健康を維持増進することが企業の利益であり、国家利益となることをそれぞれの指導者層が気づくからである。たとえば、米ゼネラル・エレクトリック(GE)や東芝などの世界の電機大手は現在、ヘルスケア(医療・健康)事業を強化している。CTやMRIなどの先進国向けの先端医療機器や新興国向けの普及機を開発する構想を発表している。これは健康産業がグローバルビジネスとして有望であることを企業が見抜いているからであるが、このような大資本が直接に歯科のマーケットに参入して来ずとも構わない。「健康」がビジネスとして成長の核になるという認識を社会が共有することに意味がある。それは健康の価値が社会において最上級のものとして名実ともに定着することである。このことは社会にとっても個人にとっても喜ばしい。
また別の観点からも歯科が日本経済の復活に貢献できる可能性を述べる。2011年元旦の日本経済新聞の記事によれば、「1955年に8927万人だった人口は04年に1億2777万人まで増加したが、これをピークに人口は減少に向かう。国立社会保障・人工問題研究所の予測によると、46年には1億人を割り込み、55年には8993万人にまで減る。—–単に人数が減るだけではない。退職した高齢者の比率が高まり,現役世代は減る。—50年前、日本は一人の高齢者(65歳以上)を10人超の生産年齢人口(15~64歳)で支えていた。それが現在は3人で1人、55年にはほぼ1人で1人を支えなければならない。人口構成の変化は国民負担増しとなってはねかえる。高齢化が進めば年金、医療、介護などにかかる費用が膨らみ、財政支出で賄う分が増えていくからだ」とある。
このような高齢化社会に突入した日本が、グローバルマーケットで戦い、尚成長していく可能性はないのだろうか?私はあると思う。それは、高齢者は生産能力を失い介護の対象となることを前提としたこれまでのステレオタイプの概念を覆せばよい。高齢者といえども充分に働ける能力を保っている者は退役せず現役で生産の場に留まれる社会システムをつくればよいのだ。我が国が態勢を立て直し、リコンストラクションにより充分発展が持続可能な社会体制が再構築される日まで。
その要は国民の健康を維持増進することである。そして咀嚼力の維持が健康に直結することを社会が100%理解できたら、歯科医療費ならびに歯科関連産業に十分な額が投資されるようになるのである。
この気運の勃興に政府の新成長戦略の一つである「ライフイノベーション」が後押しをしてくれることを願う。現在政府は、医療・介護を柱とした新たな産業育成策を打ち出している。成長戦略「ライフイノベーション」が直接的に歯科医療界に活況を呼び起こさずとも健康を発達向上させる事業を大きな成長産業と捉える目を国民が共有することは大いに利益がある。明治の国策「富国強兵」がおおいに国民の気力と行動力を喚起したように、われわれは今、明治以来の第三の国家的危機として現在の閉塞状況を「国民を健康に保つことこそ国運を拓く」というスローガンでもって打破しなくてはならない。そして国民をすべてPPK(ピンピンコロリ)に導くことが国策とならねばならない。このような気運の立役者として歯科医療者は行動を起こさなければならないだろう。歯科の力は確実に国民を健康長寿につなげられることを歯科医自身が最もよく知っているのだから。
このように歯科界の中に医療経済における自助努力の目が芽生える時、歯科医療および歯科産業はおおいに成長出来ると思う。
三つ目の根拠として、歯科の目覚ましい技術革新を挙げよう。昨年の秋、私はグラスゴーで開催された世界4大歯科学会であるEAO学術学会(EAO: Europian Association for Osseointegratin )に参加してきたが,会場において近未来の歯科医療の到来を目の当たりにし、息が詰まる思いがした。二日目の午前のセッションでは、CT画像診断・治療プランニング・インプラント手術・補綴物作成までのすべてのプロセスのコアの部分をコンピューターがサポートする近未来のデジタルデンティストリーが紹介された。具体的には、歯科診療室から印象剤や石膏が無くなり、歯を削った後の印象は光学スキャナーで口腔のデータを取り込み、石膏模型を起こす代わりにCAD/CAMでインゴットの金属やジルコニアを削りだしてクラウンやブリッジを造形する。インプラント手術においては、術前のCT画像診断に基づいてコンピューターが適正なインプラント埋入位置をガイドし、オペ前にコンピューターデータに基いて作製された補綴物をインプラント埋入と同時に上部に装着し、そしてそれは正確に適合するのだ。
新時代の到来に心が躍った。このような魅力的なデンティストリーの技術面をサポートする存在は歯科医とパートナーシップを結ぶデンタルテクニシャンなのだ。このような近未来におけるデンティストリーの担い手は高度の専門知識を駆使するが故に、有能な人材を必要とする業種へと進化する。歯科医もデンタルテクニシャンもデンタルハイジニストも、口腔の健康に従事する職業は今以上のステータスを獲得するのである。国家の将来を支える基幹産業である医療業に従事するものは、宗教者や教育者、法曹関係者と同様に聖職者としてリスペクトされる日が必ず来る。当然、それに見合う実力を備えていることが前提であるが、このステータスが必要とする学識は従来の歯学カリキュラムにはなかった領域なので、そこにたどり着くには各人の必死の努力に負うことになるのだが。
このような状況は歯科医療職が正に選ばれた人材によって担当出来る時代が到来してのことであるが、その時代はもうそこまで来ようとしている。選ばれた人材とは国家と国民の行く末を案じ、自己の職業を通じて我が国の浮揚に貢献しようとする志ある者のことである。
この業界の未来は明るい。まもなく歯科によい時代が来る。然しそれは待っているだけでは来ない。われわれの価値を国民にアピールする必死の努力が必要だ。
2011年1月3日