1 今回は発明について考える
このコラムでは現在の自分が関心を持っていることをテーマとして取り上げているのだが、今回は発明がテーマである。なぜ発明かというと、発明のスピリッツの部分が今の自分の心情にピッタリ当てはまるからである。なぜ、当てはまるのかということは感覚的なものであるから説明が難しいが、これからその点について、できる限り分析を試みてみたいと思う。
2 発明とは何か
「発明」の語義は、日常会話レベルでは「これまでにない新たなものを作り出す」程度の意味合いであろう。似たような言葉に「創造」があるが、こちらの方は発明よりもより崇高なイメージがあり、たとえば詩歌や文学、絵画、音楽などすべての芸術活動は唯一無二の価値を作り出すわけだから、まさに「創造」がふさわしい。芸術にとどまらず、科学、教育、政治やビジネスなどの様々な分野においても、無から有を作り出す営みはすべて「創造」である。創造の語感のもつ厳かさの極みは「天地創造」や「万物の創造」というように、神の領域の所業を表現する場合にみられる。
ひるがえって「発明」の方は、もっと実利的な匂いがする。必要は発明の母といわれるように、「発明」は一般の人々の実生活に直接役立つことを目的とするニュアンスが有り、学問のなかでも実学と呼ばれる領域に基盤をおくような気がする。ここに発明のわかりやすさがある。一見価値があるか、ないかわからないようなものであっても、唯一無二の創作物であれば「創造」であるが、「発明」は明確に社会の役に立たなければ「発明」とは呼ばれず、発明には社会貢献をする使命の様なものが伴うのである。しかも、その創作物は既存のものに類似することが許されない。発明とは独創であり、基本的に唯一無二の創造であらねばならない。
このような苦しい思いをして社会に有益な発明品を提供したとしても、これは発明の宿命であるが、その技術は追随者から研究され、模倣される可能性がある。これでは発明者は浮かばれず、不利である。そのために、発明者には社会に有用な発明品を公開することと引き換えに、特許という制度を設けて、発明を他の人に使用させたり、独占的な権利を発明者に与えたりすることで、発明者個人の利益と社会の利益とのバランスが保たれるようになっていると思われる。
このようなものが発明であるとしたら、世に芸術家というものは多く存在するとしても、発明家と呼ばれる存在はそう多くはないだろう。職業として芸術に取り組むものを芸術家、職業として発明に取り組むものを発明家と呼ぶとすると、発明は創造行為の中でも極めて限定されたもの、すなわち社会に実利を提供する創作物を取り扱うので、創造者の中でもごく一部のものしか発明家に該当しないことになる。つまり、発明家であることはイバラの道を歩くことなのだ。
そこまでして、何のために発明しようとするのか。そこのところが発明のスピリッツにつながると憶測している。発明家でもない自分が勝手に想像しているのだが、発明のスピリッツとは社会の役に立つことを前提というか、使命とする創造を通しての魂の修行なのではないかと思う。厳しい山岳道をひとり、黙々と歩き続ける修験者のような信念というか、ひたむきな何かがなければ、発明を目指す創造的生き方は継続できないものと想像する。その創造は相当に困難な作業で、大変な苦しみを突破しなければ結果がだせないチャレンジなのだ。発明のこういうところが、今の自分の心情とリンクするのだろう。安易なことでは結果がでず、うんうんとうなりながら、寝ても覚めてもひたすら考え続け、試行錯誤を繰り返し、失敗、失敗、また失敗の山を築き上げ、それでもへこたれずに継続する精神。そして最後に頭脳に一条のひらめきの閃光がさし、ついに困難を極めた障害を突破できる時の恍惚といえる快感。そういった、苦しみを乗り越えた後に味わえる幸福感のようなものが発明者の原動力になっていることは想像に難くない。自分もスケールは違うが、大学院生の時代に研究生活に明け暮れ、昼夜、実験室に入り浸っていた生活を経験しているので、研究者がなぜ苦しいイバラの道を歩いていけるのか、理解することができる。
3 ドクター・中松の例
発明のスピリッツの神髄は、世の中の役に立つものを創造するためのチャレンジ精神であり、究極的には魂の修験者になることだ。このような行為を持続できる精神構造に自分は関心をもつのである。自分が発明家になれるとは思っていないが、そのようなハードな生活を維持できる精神構造には極めて関心がもてるのである。というのは、発明家のスピリッツを研究することによって、彼らのハートが我々凡人の心の道先案内というか、心の持ちようを教育してくれるような気がするからなのだ。では、発明家の精神のなにが我々一般人の役に立つのだろうか。ここで、発明家の具体例として、日本の数少ない発明家、ドクター・中松こと中松義郎氏を登場させよう。
ドクター・中松の業績については、彼の著書で調べた限り、発明件数は3,351件(2007年9月現在)にのぼり、エジソンの1,093件を抜き、世界第一である。また、IBMに16の特許をライセンスしている世界唯一の個人とのこと。『ニューズウィーク』誌の「世界12傑」に日本人から唯ひとり選ばれている。
4 発明のスピリッツは物事を前向きにとらえる精神
上述のようにドクター・中松の経歴は異彩を放っている。そして、自分の栄誉を臆面もなくひけらかす人物は煙たがられる風土が日本にはあり、彼の発明の一部は眉唾物だと批判するものもある様だ。加えて、都議選にたびたび出馬していることから、変な人扱いされる要素が十分にある。この点に関しては、自分には検証する手だてはない。実際のところ、彼がフロッピーディスクの技術のコアの部分を発明したのかどうかはわからない。しかし、彼の書物を通じて見聞きできる彼の発言には本物だと信じられる部分がいくつかある。例えば以下に示す発言は、本物でなければ言えないと思われる。ドクター・中松著『バカと天才は紙二重 「ミサイルUターン」発想法』(ベスト新書発行、2008年)から引用しよう。
『「発明の心は愛の心。人生における目的も、相手が喜ぶことを喜びとする」——「発明」という文字をよく見てください。「明るさを発する」もの。これは取りも直さず、「世の中を明るくする」こと。人々に幸せをもたらし、人々が喜ぶものをつくること。これが発明なのです。—-』
『「ダメ・無理・難しい・できない——を絶対いうな」—-会議などで様々な提案が出たときに、すぐに「そりゃダメですよ」「それは無理ですよ」「難しいんじゃないかな」「そんなことできないよ」といったことを口にする人がいます。これこそ「バカ」で「ダメ」な人で、また会議であちらこちらから口々にそんな声が聞こえてくるような会社は、間違いなく「ダメ」で「バカ」な会社です。—-』
『楽しまずして、これなんの人生なりや—–人生というものは、楽しまなくてはなりません。ひとたび人として生まれたのなら、死ぬ瞬間まで「いやだ、いやだ」と言い続けて一生を終えたり,数々の悲惨な運命を背負い、その揚げ句に死を迎えるというのでは、生まれた意味がありません。この世に人として生まれた以上、楽しまなくて何のための人生か。「嬉々として楽しい人生を送る」ということが、生きる上でことさらに重要なことなのです。—–たとえ、どんなに険しく苦しみを負った人生であっても、精神が楽しく生きているのなら、それは楽しい人生なのです。』
『天才は人生を楽しむコツを知っている——人生を楽しむコツ、それを天才は、いちばんよく知っています。むしろ、この人生を楽しむコツを知っているからこそ「天才」といえるのです。「バカ」はそれを知らないのです。ここで私の創造語で座右の銘の「撰難楽(せんなんらく)」をご説明しましょう。「撰」とは「選ぶ」、「難」は「困難」、「楽」は楽しむ、この三つをつなげて「撰難楽」。人は、山もあれば谷もある、そのような人生の道を歩いていきます。そこには、どんな時にも、やさしい道と難しい道、その二つの道があります。普通の人は100パーセント、やさしい道を選びます。その方が楽だからです。多くの人は人生を楽に生きようとし、そうして何の困難もなく人生を終えることを望むものです。もう一方の難しい道を選ぶ人はいないのです。困難な道を行って苦労するのは嫌だからです。「バカ」は特にやさしい道が大好きで、必ずやさしい道を歩きます。しかし私は、この誰も選ぼうとはしない道、嫌な道と思われるような道、困難な道をあえて選んで来ました。これがつまり「撰難」です。—– このような種々の困難を越えていく過程が、まず楽しいのです。——- 天才の人生の楽しみ方は、普通の人であればやらないことにあえて挑戦し、困難に立ち向かい、そしてそれを楽しむ、ということです。それこそが、人が人生を楽しむためには重要なコツなのです。』
このような発言を聞くと、これは発明家というより、どのような人にも役立つよき人生の指南役の発言といえそうだ。こういうことは、他の哲学者や起業家、カウンセラー、宗教家、教育者等による人生の啓発書にも書かれていることだからだ。これらの発言は人生を成功に導く箴言と思える。ということは、ドクター・中松の一連の発言をもってして、かれは本物と判断してよさそうだ。本物の発明家かどうかは判らないが、本物の人物であることは間違いなかろうと思う。その人の行動の源泉が愛である、などと正面切って言える人は、少なくともまっとうな人なのだ。こういったところが、彼の言動に対して率直に耳を傾けるに値すると自分が思う理由なのである。
5 ネバー・ギブアップの精神が発明の真骨頂
発明に関して考えてきたが、発明家にとても共感を覚える最大の部分は、「絶対にあきらめない」ことを一番の信条にあげているところだ。失敗、失敗、また失敗。おびただしい失敗を重ねながらも決してあきらめず、工夫を凝らして別の角度から切り込み、その繰り返しで、最後には目標を達成。このプロセスを楽しむ。これが発明だろうと思うし、これは自分がとても大切だと考える生きる姿勢だ。そして、これは世のあらゆる成功者に共通の心構えだろうと思うし、自分もそうありたいと思っている。仕事において思う通りに結果が出せないこともままあるし、思うに任せない人生であるが、決して投げ出したくない。言い古された言葉ではあるが、“Never give up!”の精神は人生の成功のためのゴールデンルールだろう。
6 発明の神髄は運命を自らの力で切り開く精神
こうして発明について考え、文章を書いているうちに、なぜ自分が発明家的生き方に共感を覚えるかという疑問に対する答えが見えて来た。なぜ、今、発明なのか?それは自分が今、生きる上でとても大切だと思う価値観に関係しているのだが、発明に取り組む姿勢は自分が理想とする人生に取り組む姿勢と同じということに帰結するのだ。これまでにないものを創造する行為は苦しいけれどもやりがいがある。どこかに解決の糸口があるはずだと必死になって突破口を見つけようとする行為。運命とは天から与えられるものではなく、自らの意思で作り出すものだという考え方に立って、ひたすら自分の人生をデザインし、その実現に向けて四苦八苦するプロセス。両者は同じものなのだ。発明の精神は運命を自らの力で切り拓こうとする精神なのだと思う。そこが、今、自分が発明家の精神に共感を覚える理由だ。
運命は予定されたシナリオを天から与えられるものでなく、自ら創り出すものであると信じているので、思うに任せないのはまだ自分のがんばりが足らないからだと考える。決して他人のせいにはしたくない。自分の足で地面に立ち、自分の力で自分の人生を創造したいのだ。そして、思ったとおりの人生を生きることが出来たことを成功者の証とするならば、人は皆成功者になれる可能性を持っていると思う。それはいかに失敗を繰り返そうとも、成功するまでやめなければ、必ず最後には成功してしまうはずだからだ。
このような姿勢の持ち主を発明家と呼ぶなら、発明家は決して天才でなくてもなれるだろう。そして小さな発明でよいから、自分も何かを発明をしてみたいと思う。そのような生き方こそが、ドクター中松のいう、人生を楽しみながら生きることだと思う。発明の対象はものに限らず、何でも発明の対象になるのだ。たとえば、英語が堪能になる方法とか、健康で長生きする方法とか、忙しくて時間がないはずなのに何かを創作することができる時間管理術とか、どんな分野でも発明の対象が埋もれている。人生は楽しくなくちゃいけないから、さあ、何かを発明しよう!
平成21年8月24日
ドクター・中松 著『バカと天才は紙二重 「ミサイルUターン」発想法』
(ベスト新書発行、2008年)